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■素材:ポリエステル

■季節:秋冬

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noteに移行します

2004年から書き認めてきた、このブログですが、ついに引っ越すことを決断しました。


以降は、noteで書いていくことにいたします。
https://note.mu/takakist


とはいえ、こちらのブログも閉じずにおきます。
自分の思考の軌跡をときに確認するために。

どうぞ引き続き、お引き立てのほど。

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教員養成から見る「教員の多忙化」

 教職課程を担当している大学教員の一人として、昨今の「教員の多忙化」をめぐる議論の盛り上がりは、うれしくもあり、苦々しくもある。
 「うれしい」というのは、ようやく世論に届くまでの=多くの人が目に触れるまでの情報量になってきたということに対してである。何より、報道が増えた。社会に問題が認知されるということは、それを訴えたい側からすると大きな励みになる。

 すでに2000年代に入ってから教員の多忙化問題は深刻化しており、教員の過労死も問題視されていた。
 本学の卒業生が学校教員となって、毎日過重労働を強いられているという情報もたびたび入ってきていた。
 私のゼミの卒業生にも、その深刻な現状を泣いて訴えてきた者(だが辛うじて現場に踏みとどまった者)、新卒1年目で燃え尽きてしまった(休職)者がいる。


 その現状を変えたいという意識が強かったのか、その後、自分は民間の教育研究団体・教育科学研究会(教科研)に関わりながら、現場教師の方々や問題意識を同じくする他大学の研究者とつながりをつくり、この問題について知見を深めようとしている。ここでつながった先生方からは、それまで縁もゆかりもなかった、如上のゼミ卒業生の悩み相談に乗ってもらったこともあった。


 また、先ごろ「学校の働き方を考える教育学者の会」が誕生したときには、自分もすぐに賛同の署名を送った。



 本務校でも、自分がコーディネーターになったりして卒業生の若手教員を招き、現場からの生の声に耳を傾けることで、“大学教員が卒業生を介して学校教員の現状に向き合う必要性”を訴えてきた。
 だがその過程で、「教員の多忙化」が孕む「問題の多重性」に気づくこととなった。これが何とも「苦々しい」。


 というのは、教員の多忙化が単なる過労(労働量の多さ)にとどまらない、深刻な問題を孕んでいるからである。単に総量規制をすれば問題が解消される、というものではない。むしろ、人間関係のドロドロした部分が透けてみえるぶん、質が悪い。
 一つは、「指導という名のハラスメント」によって若手教員が追い詰められているという問題である。このあたりのことは、教科研が編集する雑誌『教育』などに詳しい事例が載っている。
 もう一つは、若手教員を送り出す大学の問題である。それは、教職課程を担う研究者型教員と実務家教員との意識の齟齬にある(私はこれを「課程内別居」と呼んでいる。とある教育系の学会でこのネーミングを言ったところ、教育経営学の泰斗から好評をいただいたことがあった)。
 内田良氏が発信した記事「『政治家になったら?』 教員志望者に突きつけられた言葉―大学では教わらない? 教員の過酷な労働実態」(Yahoo! Japanニュース、2019年1月6日)において、現役の教育大学生の発言が掲載されているが、彼らの発言にそれが象徴的に示されている。例えば、以下である。

「私は働き方のことで話題を共有できる仲間がいないので、大学の先生に相談したことがあります。学内に進路相談の窓口があって、そこに管理職や教育委員会を経験したような方がいらっしゃるんです。そこで働き方について相談してみたところ、『そういうことを問題に思っているのなら、政治家になれば』って言われて。そのことがとてもショックでした。」



 「教師は忙しくて当たり前。覚悟しておくのが普通。それが嫌なら、教師になるな」というわけである。
 この学生が経験したのと似た現状は、教職課程をもつ多くの大学にあると予想する。この記事における学生たちの発言は、私の本務校の実態を見て言っているかと思うほど、問題を的確に捉えている。
 
 本学では、多くの退職校長など元管理職経験者が実務家教員として大学に再雇用され、入職前指導などを教職志望学生に施しているが、それはただひたすら職場への順応を説くものになっている。深刻な現状にどう向きあい、変えていくかという対抗の視点はそこにはない。さらには、「教員の多忙化の現状について学生に教えるべきではない」とまで語る有様である。


 もちろん、私のような研究者型教員はそれに従うつもりはないので、学生には学校教員の置かれた状況を話すわけだが、当の学生たちは、2つの異なるタイプの大学教員からそれぞれ違ったことを言われるので、その間で進路をめぐって揺れることとなる。まじめな学生ほどそのような葛藤を抱えることになる。
 「教員の多忙化」背景には、それに掉さすような大学教育の現状がある。有望な教職志望者の減少にさらに拍車がかかる前に、この現状に歯止めをかける必要があるが、「課程内別居」の現状を変えるのは並大抵のことではないと、大学教育の現場にいる身としては直感している。

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教育勅語活用の非道徳性

 教育勅語が21世紀にもなってこれほど注目されるとは思いもしなかった。日本教育史の授業では毎年取り扱ってきたので(もちろん批判的にだけど)、このように政治家たちから壮大にネタを投下されて議論が盛り上がると学生を関心を持つので、教育現場としては教えやすい。

     ◆

 教育勅語には親孝行など普遍的な教えが記されている、と主張する人がいる。
だがそれは勅語の本旨をまったく捉えていない、誤った解釈である。

 そういう人たちには「親孝行や友達と仲良くするのは何のため?」と尋ねたい。「そんなの自然な感情だろ!」というのは、教育勅語の趣旨に照らして間違いである。「親孝行するのは、お国のためであり、天皇からの命令だ」と答えないと、修身科の試験だったらバツをつけられる。

 本来子どもの内面的規範として形成されるはずの「父母を敬愛する」という自然的感情を先取りして、国家や天皇に対する忠誠心へとつなげる。教育勅語はそういう構造になっている。だから、子どもは常に道徳の内面化の契機を失う。「勅語に記されているから」という理由で盲目的に規範に従うという構造を作り上げてしまう。学習指導要領が謳う「考え、議論する道徳」にも反している。他律的道徳の域を出ない教育勅語に、およそ教材としての価値はない。

 「親孝行を否定するとは何事だ!」と教育勅語の教材化に非難の目を向ける人間もいるが、教育勅語批判者でそんなことを考えている人など誰もいない。
 (天皇と言う)権威を盾に道徳を振りかざし、強制的に同調を求めて追い詰める、その行為を問題視しているのである。


      ◆


「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」


国家に緊急の事態が生じたら、正義の心と勇気でもって奉仕し、永遠に続く皇室の運命を護りなさい、という意味である。


稲田防衛大臣は「教育勅語に流れている核の部分は取り戻すべき」と述べていた。稲田氏は勅語の精神は「日本が道義国家を目指す」という点にあるというが、「道義国家」の意味は不明である。


教育勅語の「核」こそは、この「一旦緩急アレハ……天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」である。大臣の本音もここであろう。「血を流さなければ国を護ることなんてできない」とまで言ったのだから。



 国家の一大事においては国民が命をかけるのはあたりまえだという主張を展開する人がいる。


 だが「命をかける」とは? 
戦争になったとき、具体的に国民一人ひとりには何ができるのか? 兵士になる?
 まあ、高度な兵器戦の現代においてそれはないだろう。
それに、「それはない」と言ってきたのは、ほかならぬ安倍総理だ。


 では、何がどうなるのか? 
われわれ一人ひとりは何をするのか?
日常生活では倹約して我慢する? 
「鬼畜米英」よろしく、相手国に敵意を向けて、その国民を憎悪する?
文句は言わず、疑いもせず、国の言うことに従順に従う? 
そして、国の方針に従わない国民については「反日」としてこれを非難し、差別し、排除していく? 

 そうした監視と熱狂のもとで異論は封殺され、後戻りできない戦争への道が血で塗り固められてきたのではなかったか。
しかも結局、それはわれわれ国民の首を絞める結果になった―。
それが先の戦争で得た教訓のはずである。

「みんなで力を合わせて立ち向かう」などというキレイゴトで済まない無慈悲な現実こそが戦争であり、にもかかわらずその表面的な道徳に幻想をみて、容赦なく命の目方を軽くしてきたところに、環境に染まった人間の怖さがあったのではなかったか。
 教育勅語を教えることよりも、そのような過去の歴史と人間への洞察を深める教育活動こそ、本来は重視すべきだろう。
でないと、単なる独りよがりの愛国カルトで終わってしまう。

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教育という希望

久々に更新(1年とちょっとぶり)。以下、読書ノートとして。

■山﨑隆夫『教室は楽しい授業でいっぱいだ』(高文研、2017年)

著者の山﨑先生からご恵投を賜った。ありがとうございます。

           ◇


 山﨑先生の著書や論考では、必ずご自身や子どもたちのセリフが具体的に、豊富に挙げられる。ささいに見えるやりとりや子どもの所作を率直に綴る筆致が、読み手に現場の情景~教室での子どたちの“心はずむ”ようす~を豊かにイメージさせてくれる。
 それは、先生自身が「子どもの声を徹底して聴く」という思想を核として、自身の実践を創り上げているからである(この真逆が、今話題のM学園のK理事長の主張である。そこでは子どもたちへのまなざしはまったく語られない)。


 山﨑先生のような書き方は、自分にはとてもできない。ただただ、こういう実践記録があるよと今回も学生たちに紹介するばかりである。


 本書では、若手教師が「自分もやってみたい」と思える、楽しい授業事例がたくさん紹介されているほか、その実践を行うにあたっての「授業づくりと学びのポイント」も付されている。
 また、その前提として楽しい授業づくりのために、山﨑先生が長い教職生活のなかで大切にしてきた「授業づくり―四つの基本」も序盤で述べられている。
 若い教師は、そこに惹かれるだろう。だが、もちろんながら、それらは「こうすればよい」というマニュアルとして提示されているのではない。
 「こうすればよい」ではなく、「こういう認識のもと、そのように実践したら、子どもからはこんな反応がかえってきた」という確かな実践の軌跡だからこそ説得力があるのであって、だからこそ「なら、自分もやってみたい」という希望も湧いてくるのである。


       ◇    ◆    ◇



 アラゴンの詩(「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと」)にもあるように、本来教育とは希望を育む時間であり、教室とはその空間のはずだが、最近はどうもそういう気配を感じない。
 情熱的な教師と生徒たちとの交流を描いたテレビの「学園ドラマ」も最近は鳴りを潜めているように見える(実際、2016年春のテレビ学園ドラマは1本もなかったようである。その後も、学園を舞台にしていても教師が目立たないという現状である)。
 理由は何だろうか。教師の多忙化・ブラック化など、一連の改革に伴う過酷な学校現場の問題の影響はあるだろう。
「事実は小説より奇なり」(K理事長も証人喚問で言ってたな)。学校で起こっているセンセーショナルな問題の数々が(ネガティブな感情をまとって)インターネットを通してたえまなく流れてくる今のご時世では、学校や教室に「希望」よりも「失望」「絶望」を見出すのがたやすく、その非情な現実を前にしては、もはや嗤うしかないのかもしれない。
 そして、「ケバイ」としか形容のしようがない横文字の教育改革が、さらに追い打ちをかけてくる。

 こういう状況だからこそ、教育を「希望」として語るスタンスが求められる。
 盲ろう者の福島智氏(東大教授)は、アウシュヴィッツ収容所に送られた体験をもつ心理学者V.E.フランクルが編み出した公式

  「絶望」=「苦悩」―「意味」

を、次のように変換して、「教育がもたらす希望」について語っている。


「意味」=「苦悩」+「希望」
〔引用者注:元の式の「意味」を左辺に移項し、「絶望」を右辺に動かして、「ー『絶望』」から「+『希望』」へと反対語にする』
     (中略)
 誰の人生にも必ず苦悩の時期は訪れます。そのとき、「苦悩」を「意味」に転換するものが「希望」なのだと思います。そして、その希望は一人ぼっちでは湧いてきません。身近な仲間との相互の響き合いがあってこそ、希望が生まれます。教育がもたらす希望とは、そんな希望であってほしいと思います。
(福島智「(コラム)『教育』がもたらす希望」汐見稔幸ほか編著『よくわかる教育原理』ミネルヴァ書房、2011年、18-19頁)

 現在、教育に希望が見いだせていないのだとすれば、それは教育を語る教師自身が孤独な状況で、「苦悩」する自分の実践に「意味」を見出す思索の余裕がないからだろう。そして、子どもたちも教室内でバラバラな個人として(「未来の座席獲得競争」のために)学習へと急き立てられ、息苦しさを感じている―。

 べつに「クラスではみんな仲良く、よい子で」とまで言うつもりはない。ただ、同じ空間を共有する仲間として相互に響き合いながら、成長に向かっていくような建設的な関係を構築することまで否定する者はいないだろう。
 そして、教室という空間でそれを可能にするのは、教師が主導する管理・整頓といった集団的規律ではなく、子ども一人ひとりの声を徹底して聴き取る姿勢、そうして教室の仲間という存在の重さを実感した先にある、「楽しい授業」というものではないか。


 授業とは教師があらかじめ用意した授業計画を一方的に実践する場ではなく、子どもたちとともにつくるライブの世界である。
 「もっと子どもたちの顔を見て」「声を聴いて」―。行き詰まっている教師たちには何よりその真摯な姿勢に立ち戻るべきだと、本書は随所で訴えてくる。
 「この教材なら、子どもたちは興味を持つんじゃないか。喜ぶんじゃないか」。そのように発想をめぐらすことこそ、教師が本来発揮すべき専門性のはずである。

 教師は「教育方法の機械」ではない。だから、ICT技術がいくら発展しようとも「すばらしい授業など動画一本で足りる(=すぐれた教師一人がいればいい)」などという事態は絶対に訪れないというのが私の見立ててである。
“効果的な教育方法の開発・適用という視点ではなく、教師の企図通りに進まない子どもの現実を前にしながらも、その一人ひとりの固有の成長を信じて応答・支援の決断を下す”。そのくり返しのなかにこそ、教職の「苦悩」と「意味」、すなわち「希望」はあるのである。


        ◇


 あとがきで、山﨑先生は次のように述べている。

 全国の教師のみなさんや、将来教職を目指す学生の皆さんが、本書を手にして下さり「ああ、これだったら、私ならもっと楽しくできる」「子どもが授業で夢中になるって素敵だな」「よし、もっと自由に私らしい授業をしていこう」「私のクラスの子どもたちと、私のクラスにしか生まれない授業を生みだしていこう」―、そんなふうに思って下さったらうれしいです。
 この思いが、今日の学校に支配的なスタンダードや、マニュアル対応優先の貧しい授業観・教育観を乗り越え、教育と学校の閉塞を打ち破り、未来を切り拓く力になっていくのだと考えます。

教育の本質とは何だったか(「よい教育とは何か」)、その問いに今一度立ちかえるきっかけを本書は教えてくれる。

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言葉を贈る意味

 学生たちの晴れ着姿が映える恒例の卒業シーズン。


同僚の先生方も「もうあれから一年経ったのか」とという驚きとともに、卒業式に臨んでいた。


 式典後に開催された、学科の卒業祝賀会(謝恩会的性格だが、教員も会費を払う……)。


会の次第には、案の定「教員より一言」の項目があった。


学生から指名された自分を先頭に、先生方が次々と贈る言葉を述べていった。


その終盤、順番が回って来た(自他ともに認めるであろう)アクの強い古株のW先生が、次のようなことを述べた。


「この会で学生に一言スピーチをしなければならないと考えて、朝から憂うつだった。

自分が今ここで述べることに、どのような意味があるのだろう。

いま語ったことを、皆さんは明日には忘れているだろう。

皆さんは、一年次のガイダンスのときに学科長がどんなことを言ったか皆は覚えているだろうか。覚えてないだろう。

だとしたら、ここでしゃべることの意味は何だろう?」


皆酔いが回っていたところへあまりに突拍子もない自問自答セリフだったので、逆に笑いが起こった。


先生方も、またしゃべったW先生ご自身もそれで気分を害したわけではない(いや、校長として毎週 生徒たちに講話をしてきた現職出身の先生は、少し気分を害したかもしれないが……)。


 だが、自分はこの問題提起を受け止めてみたいと思った(その意味でW先生の言ったことは覚えているし、これ以前にも先生が懇親会などの席で語った詩的なことを自分自身は覚えている。その点で、先生の指摘は正しくはない)。



    ◇   ◇   ◇



教員が学生に対していろいろな言葉を贈る場面は、入学式やガイダンスをはじめ、じつにたくさんある。何より授業がそうだ。


膨大な時間をかけて、学生たちにいろいろな言葉のシャワーを浴びせている。


だが、学生たちはそこから何を受け取っているのか。



こちらは何度も真剣に贈っているのに、ほとんど何も受け取っていないのではないか―。


 実際そう思って空しくなるときは、自分だってたくさんある。


 以前、W先生とタッグを組んで、学校インターンシップの学生面接をしていたとき、先生が「ガイダンスのときに『これが大事だ』と言ったことを覚えている?」と学生に尋ねたところ、誰も答えられず、ひどく落ち込んでしまったことがあった。

 そういう過去の経験もあった(また今現在も、同じ経験を毎度している)からこその指摘なのだろう。



 だが自分は、W先生の指摘に対して、次のように言いたい。 


「先生はこの4年間に食べた料理のことを逐一覚えていますか。

また覚える必要がありますか。

中にはよい思い出(苦い思い出?)とともに覚えているものもあるでしょうが、記録でもしていない限り、とてもすべては覚えられません。


でも確かに、それらの料理は私の体の中で身(実)になっています。


何月何日にどこでどんな味のカレーライスを食べたかという個別の情報はほとんど忘れてしまうでしょう。


でも、何度も食べていれば、カレーライスがどんな味かはわかるようになります。




 教師が学生に語る言葉というのも、そのような性質のものではないですか。


いつ誰が語った言葉かが重要なのではありません。


誰が贈った言葉(=情報)であろうが、何度も聞くなかでそれに学生が(何かの経験をきっかけに)自分なりに意味を与えて思想を耕してくれればいいのです。


誰が言ったかは、忘れてしまっても構わない。


いつ誰が言ったかも忘れてしまうくらい、同様の言辞に学生が日々考えをめぐらせていることのほうが重要ではないですか。」


と。


実は後者の部分(とくに言葉の「意味」をめぐる部分)は、W先生自身もその後のスピーチで語っていたかもしれない。



 また、次のようにも考える。


「どんな言葉も、その固有の肉体を通して発せられます。


同じ言葉でも、先生という身体から発せられるからこそ、独特の色がついて学生に届きます。


先生の場合、その語り口だからここそ言葉に味わいも出る。



そして、その光景のほうが学生には強く残ります。


『ああ、大学教員のなかにはこんなおもしろい人もいるのか』と。


多様な人間観をこそ、学生は無意識のうちに形成しているはずです。」


これはなかなか、しゃべっている本人は自覚できない部分だ。


自分が語っているすがたは、学生にはどのように映っているのか。


学生は自分からどのように「大学教員」を記号化しているのか。


何ともわからない。



 でもW先生については、その不思議な魅力とともに学生の記憶には刻まれているはずだと自分は確信している。
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『教育』を読む会に学んで

 雑誌『教育』といえば、戦後発刊されて以来、教育(学)界に大きな影響を与えてきた、伝統ある硬派な雑誌である。

自分も学生時代から、暇を見つけては、大学の図書館で記事をチェックしていた。


 じつは約2年前から、勤務先の大学でも雑誌『教育』を読む会を不定期で実施している。まさか大学教員となって、学生とこの雑誌を読みあうことになるとは夢にも思わなかった。
 たしか、浦野学部長の発案で、熱心な学生が結集して始まったと記憶している。
 記録をふり返ってみると、自分が初めて同会に参加したのは、2014年の1月だった。おそらくその前に1回は実施していたはずである。
 実施はひと月に一回程度。試験期間や長期休暇期間などは実施できないことが多いので、年間にできる回数はかなり限られ、1年ほどしかやっていないのではないかと錯覚していた。だがふり返ってみると、細々とではあるが、着々と活動成果を蓄積してきたことになる。


 学生にとっては、かなり敷居の高い読書会ということになるが、参加者の顔ぶれは変わることなく、かつ少しずつ新顔も加わりながらここまで継続してきたことは、特筆すべきことと言ってよい。

 さらにその多くが4月から教員、もしくは(非正規ながら)学校現場に関わる仕事に就く予定であるという現状も喜ばしい(本を読む時間すら取れないという、きわめて問題のある今の教師の現状からみれば、学生時代に教育雑誌を読み込んだというこの経験は、たとえすぐには成果として表われなくとも、やがてこころの奥深くに沈んで、本人の教師としての生き方・成長を下支えするはずである)。

 この4月から小学校教員になる私のゼミ生は、同会の初期からのメンバーであり、これに飽き足らず、一橋大学で毎月開催されている多摩『教育』読者の会にも自主的に参加してきた。
 彼女に誘われて私も参加しはじめているほか、本学の学生も少数ながらこの学外での読書会へと自主的な学びの幅を広げつつある。

 そして、つい先日には、八王子の大学セミナーハウスで合宿を実施、2016年2月号を検討した(これには、多摩読者の会の方々も驚かれていた)。
 もっとも、これは合宿大好きなもう一人の支援教員の発案によるもので、読書会より夜話会がメインという性格が強かったのだけど、それでも従来通り、担当学生がレジュメを切り、論点を提示しながら議論を深めていくというスタイルを貫き、中身の濃い議論をすることができたと思う。

   ◇  ◇  ◇ 

 『教育』を読む会に参加する意義を学生たち自身は、どう考えているのだろう。


 教員があれこれ世話を焼く必要はないのかもしれないが、気にはなるところである。だが、学生たち自身も尋ねられて即座に答えるのは難しいかもしれない。


 「教育といっても、わからないことが多い。だから学んでみようと思った」
「講義のような一方向的な学びでは満足できない(まして、「べき論」ばかりの教職科目の授業はつまらない)」

――といったあたりが、最大公約数的な答えだろう。 


 自分自身とて、何か「〇〇を得よう」という明確な問題意識があって参加しているのではない。

しかし、だからこそ得られるものが多々ある。
 ある学生に、「先生の専攻分野は歴史なのに、なぜこの読書会に参加するのか」と尋ねられたことがあるが、その時は「現代の教育についての問題意識がないと、歴史を捉えることはできないから」と答えた記憶がある(そもそも歴史とは、固定化された不動の過去などではではなく、歴史家が史料と格闘し、解釈した事実の集まりである。
歴史家の現代的課題意識が反映する意味において「すべての歴史は現代史である」 by B.クローチェ)。
 もう少し、(学生にも向けて)補足すると、次のようになる。

「『教育』を読むことを通して得て自ら得た知識や、読書会を通して触発されて考えたことは、日々のニュースや会話のなかで同様の、あるいは類似の教育問題に接したとき、その都度立ち現われてくる。それが、さらに問題について考えるきっかけをくれる。今までなら素通りしてしまっていた問題も、立ち止まって考えることができるようになる。教育史に限らず、およそ教育を研究する者としては“教育を見る眼を鍛える”ために有意義な機会である。」

問題をセンシティブに捉えるための襞は、あればあるほどよい。


「学力テスト体制」「生き凌ぐ技法(アート)」「教育への『行政犯罪』」「シメない教育」……。
学生たちには、それら『教育』のテーマとして設定されたユニークなフレーズを思考のスイッチとしながら、思索を深めてもらえればと願っている。
そして、学びの潜在的欲求を持った新入生たちを巻き込んでほしい。

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「次世代の学校・地域」のゆくえ

 次期学習指導要領改訂に向けた論点として「社会に開かれた教育課程」が掲げられ、また、「チーム学校」というキーワードのもとに、学校地域協働による教育が重視されようとしている。
 昨年暮れに出された三つの中教審答申は、かなり大風呂敷を広げたように見えるけれども、各フレーズ―「学校と地域の一体改革による地域創生」「学び合い、高め合う教員養成コミュニティの構築」など―は、たしかに興味深い論点を含んでいる。

だが。
 教育史を学んでいる身としては、「これは中途半端に終わるな」という感じを受けてしまう。
 「学校と地域の連携・協働」というのは、別に目新しい理念ではなく、これまでも散々言われてきたことである。財務省から予算をとってくるための言葉のリニューアル、というのがホントのところではないだろうか。


それに。 
 「チーム学校」といったとき、その中心はあくまで学校であり、“学校がリーダーとなって地域の力を動員し、一丸となって国が定める教育課程の実現に努めよ”“その実現に向けて学校経営の組織改革や、アクティブ・ラーニングなど新しい学びを実践するための教員の養成も必要だ”、という理解でおそらくまちがってはいないだろう。
あくまで(学校を社会に開くことを通して)地域の主体性をいかに教育的に掬い上げるか、というところに主眼がある。

 そうなると、学校による所定の教育理念(学習指導要領)の実現が到達目標だから、そこに関わる地域の意味は、あくまで方法的・手段的なものでしかない。そういう発想に地域が乗ってくるだろうか。地域経済の停滞や過酷な労働状況と相まって、結局地域からの協力は先細っていく、それでも学校は今までと同様に地域へと訴え続けなければならない―、というところまで予想できる。
 「地域も学校を支えよ」という、地域を手段として見る発想は、教員の負担を減らすという思惑とは裏腹に、学校の多忙化をいっそう加速させ、教師たちは(さらには地域も)息切れしてしまうだろう、というのが自分の見立てである。 
 
 
   ◇  ◇  ◇  
 
 昨今の教育政策の動向は、大正自由教育から郷土教育・全村教育に至る1910―30年代の史的展開と、枠組みがひじょうに似ているように見えてしまう。
問題解決学習など子どもの自発的な学びが重視されながらも、その活発な教育活動を行なう教師の主体性を特定の方向へと水路づけるために展開された「教育の郷土化」施策という、あの時代の静かな教育統制。加えて、向上心に擽られて、それに進んで向かっていく教師たち(専門性の向上という名のもとに、かえって教師教育の均質化を進んでいくというのも、この頃に顕著になっていく傾向だった)。そして、教師が学校内にとどまらず、地域振興・経済更生にも役割を果たしていった先に待っていたのは、国家総動員・一億総玉砕だった―。

 翻って、現代。一方でアクティブ・ラーニングの重要性が謳われ、他方で地域との協働へと学校・教師が駆り立てられるという状況。加えて、教職の高度化に向けた「養成・研修の充実」(という名の静かな統制)が叫ばれる現状。そして何とも時代遅れに聞こえる「一億総活躍社会」という響き。
 これらは、単なる偶然の一致なのだろうか。

 「すべての歴史は現代史である」というクローチェの言葉ではないが、現代をみる自分の課題意識が投影しているから、そのようなものとして歴史が立ち現われてくるのかもしれない。

 いずれにしろ、あの時代をもっと掘り下げてみていかなくては、と思う。 自分の研究フィールドなのに、まだまだ勉強が足りない。 

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地域との協働を通して主権者を育てる

 昨年6月、公職選挙法の一部を改正する法律が成立し、18歳選挙権が認められることとなった(総務省「選挙権年齢の引下げについて」)。
  それをふまえ、主権者としての学びを進めるための教材(「高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」など)も作成、公開されている。

 だが、当事者たる高校生の意識はどうだろうか。選挙意識に関するアンケートでは、「選挙に行くと思う」と答えた高校生は76%に上るとの結果も出ている(「高校生7割「選挙に行く」 選挙権引き下げで意識調査」『西日本新聞』2015年12月7日)。
 だが、20代の低投票率の現状をみていると、否定的にならざるを得ない。そもそも、有権者の2%程度が増加するに過ぎないので、彼らの世代の意見がどんなに束になってかかっても、60~70代の世論の前に数では勝てないのは目に見えている。その現実に打ちのめされて、結局は政治から離れていくか、もしくはより弱い者(障害者や性的・民族的マイノリティー)を抑圧する傾向を助長してしまうのではないかと考えてしまう。

  自分が否定的に問題を捉えてしまうのは、何よりも主権者を育てる第一人者であるはずの学校教育がきわめて非民主的であることに起因する。理不尽な校則の強制、形ばかりの生徒自治、教師の都合で進行する授業とそれに同調する限りで求められる学びの主体性。何より教師自身が上からおりてくる施策の実践に苦心するだけの非民主的な職場……。生徒たちは学校・教師の言動の不一致・矛盾を見抜いている。それもあって、生徒たちはよりコストのかからない受動的パフォーマンスに終始するのである。学校こそ、生徒の主権者意識を削いできた元凶といって過言ではない。 
 そんな中、18歳は、主権者として育つ機会を与えられることなく、いきなり主権者にさせられるのである。それでどうして、社会参画が活発化すると考えられるのだろう。 

 このような現状は、自分自身も肌で感じてきた。高校時代に教わったある社会科(社会系教科)の教師は、正々堂々と「そこらへんのおばさんに選挙権を与えるのはおかしい」と生徒の前で明言したのを思い出す。


           ◇


 とはいえ、高校生がより直接的に政治に参加する機会を得たことは、喜ばしいことである。そうである以上、彼らを主権者として育てる教育活動が構想されなければならない。実は、すでにそのような実践は存在する。社会科など個々の教科の問題ではない。学校ぐるみの実践、「三者協議会」の取り組みである(以下の例)。
 この一年、学部長の誘いもあって、学生と共に辰高の三者協議会を傍聴する機会を得た。20年近くの実績をもつ同校の取り組みは全国の高校に刺激を与え、現在も全国から傍聴人が訪れている。
 生徒が主体となって学校づくり・地域づくりに対して自分の意見を表明し、また実際に取り組んでいく。生徒の意見を尊重し、話し合いによって合意した事項についてはきっちりと実行に移す。中には未熟な要求もあるだろうが、教師は聞く耳を持たないという独裁的姿勢では臨めない。生徒からの思いを受け止めて、しかるべき手続きを経て納得できる回答を返す。こどもの権利条約第12条に定められたこどもの「意見表明権」を行使するトレーニングの機会を与える場を、学校・地域ぐるみで創出し、さらに実際に学校づくり・地域づくりにつなげているのである。
 
 実際、辰高の生徒たちは地域の商工会などともコラボして、自分たちのまちづくりを進めている。町から苦情が出されれば、どのように対応するか自分たちで話し合う。授業・カリキュラムに対する不満や要望も協議会で提案し、教員から改善に対する回答を引き出す。教師も緊張感をもたざるを得ない。大人の言いなりではない、学校づくりの姿が確かにここにはある。


 このような実践=生徒一人一人が個として尊重され、意見を表明できるような機会を与える実践は、生徒自らが主体的に社会参画する姿勢を育てることにつながるだろう。
 だが、三者協議会の取り組みを快く思わない教員が一定数いるのも事実である。「自分が専門とする教科の授業に専念したい=なぜそんな取り組みにかかわらなければならないのか」という声である。とくに高校は県立の場合が多いから、「われわれはあくまで県の職員であって、その高校が位置する市町村とはかかわりのない」という発想が高校・教員の側にはある。少子化の影響で、各地で高校再編計画が起こっているが、県の指示なら自分は従うという態度をとるわけである。だが、県立であっても、高校の多くは地元町村からの多大な寄付(民費)により設立された場合が多く、地元にとっては「まちのシンボル」という特別な意味をもっている。
 その地域の願いをどう受け止めるかということが、公務員的発想に陥らない「地域とつながる」という姿勢が、これからの教師に求められる。「地方創生」を叫ぶ一方、一方的な行政の指示で「まちのシンボル」が地域から消えて過疎化が一層進行する可能性は高い。「学校地域協働」というワードが掲げられ、地域と学校との連携・協働の在り方をめぐる中教審答申が出されるまでに至っている現状は、学校・教師の役割が再考される時期に来たことを示している(「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について(答申)」)。


  この「学校地域協働」と「主権者教育」という双方の課題につながる「地域との協働を通じた主権者教育」実践として、三者協議会の取り組みは位置づけられるのではないか。傍観者として社会を眺め、関わりのない観察者として知識を学ぶのではない。ほかならぬ自分自身の主体的責任がからむ問題として受け止めて知識を学び、意見を表明し、実際に社会に働きかけていく。身近な地域から働きかけ、そして「やればできる」ということを感得していく。三者協議会の取り組みは、今後の学校教育がめざす方向性を先取りしたものであると捉えられる。
 そのような生徒主体の取り組みを支援できる教師を育てるにはどうしたらよいか。教員養成に関わる一人としてきわめて重要な課題を背負っていると、三者協議会を傍聴し、辰高の先生方と交流するたびに感じている。 

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これぞ中央集権のカリキュラム政策

 久々の更新である。昨年は、あまりにも(よいのも、悪いのもひっくるめて)重い問題がふりかかりすぎた。もちろん、いずれ直面する問題ではあったのだが、なぜそんなに一気にふりかかってくるのだと、思わずにはいられなかった。少しでも精神衛生的な安定を求めるために、気軽にブログで発散することにしよう(あまり質は問わず、綴り鍛える、という原点に立ち戻ろう)。

      ◇

 さて、昨日一昨日とすっかり日本の恒例行事として定着したセンター試験。今年は過去最多の850の大学・短大が参加したようす。


 今の職場は毎年会場となっているので、自分も毎年センター試験の監督にあたってきた。
 ほんとストレスフルな仕事である。あの分厚い監督要項に沿って、全国津々浦々で同じ時間帯に同じセリフがあちこちで吐かれていると思うと、実に滑稽である。
 しかも、文章をみるとごていねいに「①」に「まるいち」とフリガナまで振ってある始末。これ、山形のほうでは「いちまる」と呼んでいたはずだ。そちらのほうでは、要項のこの記載をどう受け止めたのだろう。
 こうやってセンター入試を通した国語統一政策が浸透していくのか……などと、ネタを探さずにはいられなかった。


 実際、学習指導要領の拘束力を実際に駆動する装置としてセンター試験が機能しているのは確かだろう。センター試験を廃止するからといって、教育統制機能を強力に果たしているこの装置を国が手放そうとしているとは思えない。今後の入試改革で測ろうとしている「主体性」や「思考力」なども、結局のところ、大正自由教育がそうであったように、「教育方法改革への自己限定」という帰結を辿るのではないか……。

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丸山眞男の教員社会への認識

■丸山眞男・宮原誠一「教育の反省」(平石直昭編『丸山眞男座談セレクション(上)』岩波現代文庫、2014年。原典は1948年9月『教育』9月号、世界評論社)

 書店で何気に手に取った一冊だが、冒頭の対談が目に留まり、即買いを決めた一冊。 
 内容がびっくりするほど色あせていない。最近、大学改革をめぐって「実践的な職業教育」の位置付けがいろいろと議論を読んでいるが、この問題に関する論点も、すでに戦後まもなくのこの時期に鮮やかに明示されていたことがわかる(対談の相手が宮原誠一だというところで推察していただきたい)。これについては、ぜひ別の機会に触れてみたい。
 自分がこの対談を読んで驚いたのは、宮原ではなく丸山眞男が明治以降の日本教育史について雄弁に語っていることだった。
 現在自分が関わっている科研で大きなテーマとなっている教育会と教員組合の問題についても、まさに同時代的に捉えた実態を語ってくれている。
 以下、ちょっと長くなるが、その部分を引用してみたい。もちろん、丸山のしゃべっている部分である。この部分には、「教育者の教養」という小見出しが付されている。


……教育者としての側に問題を移してみると、なかなか大変なことだと思います。つまり教育者の使命というか、そういうものについて何かやはり従来と違った新しい考え方が確立されないと、観念的に新しいタイプの人間をつくる教育をするといっても、教育者自身がペスタロッチやヘルバルトは読んでいるけれども、自分の周囲の日常的な問題を科学的に処理してゆく能力がないような人ならば、とうていそういう教育をする資格がないと思います。そういう場合にはやはり一方では、教育者としての自覚と、それから他方では民主主義国家の市民としての自覚、そういうものがどっかの点で統一されなければいけないのじゃないかということを非常に感ずるのですよ。
 というのは、去年或る県に行って、そこの教員の人達といろいろ話をして感じたのですがね、そこでは教員組合とそれから教育会の間にいろいろなごたごたが起こっている。といっても、平メンバーは両方に所属しているので、結局両方の幹部の間の問題なんですが、その場合教育会の方は幹部の人は大体校長とか教頭とかで、そういう人は師範出が多いんです。こういう人の傾向は大体保守的ですね。それに対して教員組合の方では相当ラジカルに批判する。そこはたしかに、教育界のボスの排撃という問題もあるのですが、単にそれを進歩的なものと反動的なものとの争いといい切ってしまえない別の側面があるのです。というのは、師範出のうちの真面目な分子は、とにかく自分は教育者であるという一つのプライドを持って教育に対して一つの使命感を持っている訳ですが、ところがこの使命感が非常に観念的で、教育者が待遇問題にあくせくするのは、およそ教育者の誇りを失ったものだと頭からきめてかかり、教員組合の経済闘争にだいたい冷淡である。ところが他方今度教員組合の幹部の急進派には師範出の人が比較的少い。その県で最も急進派として活躍していた人は小学校ではなく旧制中学の先生です。中学の先生にはむろん皆が皆そうではないけれども、教師を職業として選んだということがそう必然的なコースではなく、いわば他のいろいろな職業につき得るけれども、いろんな事情で、教員になったに過ぎない人もいる。だから教育者の使命感というようなものはそれほど痛切に意識していないんですね。そういう人は教育者といえども労働者だというような考え方をスムーズに受取る。教育者だって労働者だということは当然なんですが、しかもなお教育者であるという面はうっちゃりにして、我々も労働者だという一般命題に還元してしまうのです。そうすると、どうしても教員組合の指導の仕方、やり方がやはり一般の労働組合の場合と変らなくなる。そこに少しも特殊性が出てこないということになると、これは教育についてともかく或る一つの使命感をもっている人々を反発させてしまうのです。いきおいこの人々はますます観念的になって、結果として反動的な役割を演じている。他方、教員組合の急進派はまたそれに反発して、悪い意味でマテリアリスティック〔唯物論的〕に走る。こうして教育の使命とか理想とかいうことと、教育者の生活要求とが、口ではともかく実際は一向に媒介されないで、ますます天上的なものと、ますます地上的なものとに分裂して行くのです。
 むろん私のいい方はちょっと大げさですが、今ではきっと、ずっとよくなっていると思いますが、ともかく、そこでやはり従来師範学校出のいわゆる教育者としての使命感、そういうものの狭隘さはやはり破らなければいけないと思うのですけれども、その場合、ただ枠が外れたというだけではいけないので、そこに教育という社会的使命にともなうモラルが当然なければいけないのじゃないか。民主主義国家の一市民としての自覚を、どういうふうに教育者の生活の中に生かしてゆくかということが、大きな問題じゃないかと思うのですけれども…… (17-20頁)


 この「或る県」がいったいどこを指しているのかは不明だが(どこでしょう? 多くの県では「ごたごた」になる以前に、割と静かに、構成員そのままに教育会→教員組合へと移行していると自分は認識しているのだが……)、いずれにしろ、丸山がここで語っていることは、これまで教育会史研究が蓄積してきた知見と関わってじゅうぶん納得できるもので、それだけに興味深い。

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